遥かな南洋の島々/東京・小笠原村の課題を探る/<下>/玉砕の島・硫黄島/今なお残る1万2千の遺骨
(2002/11/04)
父島からさらに南方270キロメートルの洋上に浮かぶ小島(約23平方キロメートル)で、57年前、日米両軍のし烈な死闘が繰り広げられた。猛烈な艦砲射撃と豪雨のような空爆で、かつての村は消え、島の風景は一変した。返還から34年がたった今日も、硫黄島には1万2000柱以上もの遺骨が遺族の元に帰ることなく眠っている。
『強制疎開、玉砕、許されぬ帰島』
1944年、本土防衛の最前線基地となった小笠原諸島の島民6886人(硫黄島1098人)は、制限された手荷物・風呂敷包み2個を抱え、幼子の手を引き、着の身着のままで本土に強制疎開させられた。15歳から60歳までの男子825人(同160人)は軍属として島に残された。
45年2月19日、米軍の上陸で日本国内における最初の、し烈な陸上戦闘が始まる。愛する父母や妻子と離れ、孤立無援の孤島に留まった日本軍2万余人は、圧倒的な米軍に対し、食料も水もない灼熱の地下壕にあって、持久戦を展開。3月末に玉砕を遂げる。米軍も約7000人が戦死した。
戦後、強制疎開させられた島民は慣れない内地で散り散りバラバラの生活を強いられ、とくに硫黄島の島民は、返還後も厳しい自然条件などを理由に今日も帰島は許されていない。現在、島には約400人の海上・航空自衛隊員とその関係者が、基地業務のほか気象観測や災害派遣(急患の輸送)などを行う、文字通り基地の島となっている。
9月の党小笠原調査団に参加した山口那津男参院議員と
藤井一
都議らは、父島で「小笠原村在住硫黄島旧島民の会」(宮川章会長)の代表と懇談した。席上、高齢化し当時を知る人々が減少していく現状や、民間人である旧島民が近年まで遺骨収集に参加できなかった経緯、自衛隊の不発弾の処理作業と並行して行われる活動の困難さ、限られた時間内に駆け足でしなければならなかった墓参――など家族を失ったメンバーの話に真剣に耳を傾けた。
硫黄島で戦死、いまだに遺骨が戻らない身内を持つ山口氏は、「外地ではない日本の領土内で、ここだけ遺骨収集ができていない。軍属として一族を代表する若い人たちが島に残され、尊い命を失った遺族の心情を思うと、特別の集中的な遺骨収集活動を行い、一日も早く戦後の決着をつけなければならない」と語気を強めた。
今年6月、小笠原村は40人の宿泊が可能な「硫黄島平和祈念会館」を硫黄島に建設。58年ぶりの故郷の一夜を過ごした旧島民は、「初めてゆとりある供養ができた」と涙を流した。だが、いまだ終わらぬ硫黄島の戦後処理は国の責務であるはずだ。
厚生労働省によると、今年8月までに硫黄島の戦没者遺骨収集は延べ45回。8329柱の遺骨を収集。76年度から始まった遺族の訪問慰霊は9回の実施となっている。
『望まれる特別措置法の延長』
国は、この島々の地理的、歴史的特殊性をかんがみ69年、小笠原諸島復興特別措置法を公布。同法は、以後5年ごとに延長を重ね、現在の小笠原諸島振興開発特別措置法に引き継がれ、島民の生活安定と地域の自立発展の促進、経済と福祉の向上に、大きな力となっている。
小笠原の調査を終えた山口氏と藤井氏は先月、来年度末に切れる同法の改正と延長をはじめ、航空路実現や父島・母島間の格差是正、情報通信体系の改善、医療・福祉施策の拡充など、島に暮らす人々の声を踏まえ、関係当局に3度にわたる申し入れを重ね、上京した小笠原村議団と意見交換するなど、問題解決に全力を尽くしている。
来年、返還35周年を迎える小笠原。山積する課題を乗り越え、平和の尊さを語り継ぐ真に豊かな島々になり得るのか。そこに、わが国の“政治”が問われている。<終>
(この連載は社会部・辻信一記者が担当しました)
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